戦を仕事としていた「武士」は、いつ生まれたのでしょうか? そのことを探るには、奈良から平安時代にかけての土地制度を知らなくてはなりません。
奈良時代、全国の土地は国のものでした。そのため、国ごとに「国府」という現在の都道府県庁に当たる役所が置かれ、郡ごとにも役所が置かれました。役所では、住民一人ひとりを管理するための戸籍が作られ、6歳になると国から口分田(田んぼのこと)が配られ、米を作って税として納めました。この決まりを「班田収授法はんでんしゅうじゅほう」といいます。
下野国府の復元模型(写真提供:栃木県教育委員会)。下野国府は現在の栃木市田村町一帯に置かれていた
しかし、口分田が足りなくなったため、新しく田畑を切り開いた(「開墾かいこん」といいます)土地は自分の土地にして良いという法律が定められました(「墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう」といいます)。個人で田畑を切り開くよりも、集団の方が効率よくできるため、貴族や寺社などでは道具やお金を用意して、多くの人を集めて開発を行いました。これらの土地は「荘園しょうえん」と呼ばれ、貴族や寺社が所有しました。平安時代になると、藤原氏や奈良、平安京にあった大きな寺社などが多くの荘園を全国に持ちました。平安時代後期に当たる1100年代中ごろの下野国しもつけのくにの場合、奈良東大寺の荘園が現在の栃木市にありました。また、庶民は国や荘園領主に取り立てられる重い税に悩まされました。
さらに奈良から平安時代にかけて何度も疫病えきびょうが流行し、多くの人が亡くなりました。奈良時代には、疫病や自然災害などが収まるよう祈るため、東大寺には大仏を、全国には国分寺と国分尼寺こくぶんにじを建立しました。下野国の場合、国分寺・国分尼寺は現在の下野市に建てられました(現在、天平の丘公園の一画に整備されています)。800~1083年には富士山が12回も噴火し、818年は関東地方で、869年には東北から関東地方が東日本大震災と同じ規模の大地震に見舞われました。また1108年に群馬県の浅間山が大噴火して関東地方に灰が降り注ぎ、田畑が荒れてしまいました。
北西から望む下野国分寺七重塔と中門CG(写真提供:下野市教育委員会)
このように、疫病や災害が続いたために税が集められなくなり、国府などの役所や国分寺などの公立寺院は維持できなくなりました。役所をはじめとする公に代わり災害復興を行ったのが、天皇家や藤原氏、そして中央の寺社と関係の深い地方の豪族でした。地方で再開発に成功し富を蓄えた豪族たちは、その富や財産を守るために武器を持ち、やがて武士団となっていきます。戦うことが得意な武士団は、天皇や貴族を守るために都と地方を行き来します。その武士団の中で中心となったのが、平氏と源氏でした。
《キーワード》荘園
8世紀(平安時代)から16世紀(室町時代)まで存在した貴族や寺社、武家(武士の一族)など支配層が持っていた農園のことを言います。その大きさはまちまちで、鹿児島県ほどの広さもあれば、村ほどの小さいものまでありました。
(文/下野市教育委員会文化財課 山口 耕一)