• 学習情報
  • 社会科

(社会科コラム2)海があった「とちぎ」に戻りたいですか?

2021.12.10

地球は今から約6,500〜6千年前まで温暖化が続き、海水面上昇はこの頃ピークを迎えます。この気候の変化が人々の生活に変化を及ぼしたことは「社会科コラム1」でお話しました。

海水面が上昇したことで、現在の海岸線よりも約60km内陸の茨城県古河市周辺まで入り込んでいました。また、渡良瀬遊水地周辺は汽水きすい域(人間が使える水と海水が混じり合った区域)となっていました。その付近の栃木市藤岡地区の篠山貝塚や野木町の野渡のわた貝塚からはシカやイノシシの骨のみならず、ヤマトシジミやハマグリ、アサリの他、スズキ・クロダイ・マダイなどの骨が見つかっています。

そうです、6千年前までは栃木県に海があったのです。想像してみてください。JR宇都宮駅から上野や逗子行の電車に乗ると、野木駅を通過すると海が目の前に見えたのです。となりの古河駅を過ぎると、浦和駅まではほとんど海の中を進むことになります。新宿駅周辺は陸地でしたが、上野駅周辺は海の中でした。この時代から現代まで気候が変わらなければ、関東地方の地図は今と大きく違っていたわけです。

縄文時代の海岸線の変化。左上の古河市あたりまで海でした(江田郁夫・山口耕一編『戦乱でみるとちぎの歴史』下野新聞社、2020年より)

この頃は気候に恵まれ、食料が豊富になったために人口が増え、ムラの数が増えました。食料を追い求めて移動する狩猟採集しゅりょうさいしゅうを基本とした縄文時代の生活は、豊富な食料と住みやすい環境の変化のおかげで、一定の場所に住むことができるようになりました。定住するために作った竪穴(ルビ:たてあな)住居の広さは、現在の6畳くらいの広さのものから宇都宮市聖山公園せいざんこうえん内の「うつのみや遺跡の広場」に復元されているような長さ23m、幅10mの巨大な建物も作られました。このような建物は、ムラの中の集会場など特別な使い方をしたと考えられています。

うつのみや遺跡の広場に復元された1号長方形大型建物(奥)と掘立柱建物(写真提供:宇都宮市教育委員会)

しかし、今から約5千年前になると、再び気候が寒冷化し、集落の数が減少したことが確認されています。約4,500年前になると、さらに少しずつ地球全体が涼しくなっていきました。平均気温が低下したため、狩猟採集に頼った食生活が難しくなっていったようです。現代人は数百年で1.5度の気温変化に右往左往していますが、温暖化と寒冷化が繰り返し訪れたこの時期の人類は、水害に悩まされたり、寒さで食糧危機になったりともっと大変な時代を乗り越えてきたようです。

《キーワード》縄文海進
縄文時代、温暖化で海水面が現在より2〜3m高く、東京湾の海岸線が現在の茨城県古河市付近まで来ていました。これを「縄文海進」(ルビ:じょうもんかいしん)と言います。「海なし県」である栃木県内に縄文人たちが食べた貝がらのゴミが残された「貝塚」があるのは、縄文海進が原因です。

(文/下野市教育委員会文化財課 山口 耕一

ハッシュタグ

リンク