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(社会科コラム9)南北朝の内乱と足利尊氏

2022.03.04

もし尊氏がいなかったら、「足利」は全国の人に正しく読んでもらえず、難読地名にされていたかもしれません。

 平安時代の末に、尊氏の先祖である河内源氏の一派が、足利にやってきて土着しました。当時の武士は本拠地の地名を苗字とする習慣があり、ここに源姓げんせい足利氏が始まりました。鎌倉時代には有力御家人として、将軍を助けて幕府の政治に関わってきました。

 しかし幕府の政治が行き詰まると、尊氏は新田義貞にったよしさだ楠木正成くすのきまさしげらと共に幕府を滅ぼしました。義貞は尊氏と同族で、同じく東国の御家人であり、現在の群馬県太田市付近を本拠地にしていました。正成は「悪党」とも呼ばれた、幕府に従わない近畿地方の武士です。彼らは北条氏による専制政治に不満を持っていました。多くの東国御家人や近畿の悪党が、自分たちの生活と利益を守ろうと、幕府を倒すために戦うことを選択しました。やがて後醍醐天皇ごだいごてんのうによる建武の新政けんむのしんせいが崩れ、南北朝の内乱が始まります。

 この時代、下野国の他の有力御家人はどんな選択をしたでしょうか。宇都宮氏では公綱きんつなが有名です。鎌倉幕府のために戦うことを選択し、大坂の四天王寺してんのうじで楠木正成と対陣しました。正成は公綱が「坂東一の弓取り」であり、彼が率いる「紀清両党きせいりょうとう」(*)の強さを恐れ、直接対決を避けたといわれています。本当に強い武将は、相手の強さも分かるのですね。その後の公綱は、南朝に味方して尊氏と戦い続けるのですが、宇都宮氏全体としては北朝方になっていきます。

宇都宮氏第9代当主・宇都宮公綱像(『下野国誌』巻九、栃木県立博物館蔵)

 悲劇に見舞われたのは小山秀朝おやまひでともでした。初めは鎌倉幕府のために後醍醐天皇や楠木正成と戦い、のちに新田義貞と共に幕府を滅ぼし戦功を上げます。しかし、中先代の乱なかせんだいのらん:高校で「日本史探求」を選択すると習います)では、武蔵府中むさしふちゅうの戦いで一族と共に戦死してしまいました。小山氏にとって大打撃でしたが、子の氏政や孫の義政が北朝方で活躍することによって、見事に勢力を挽回ばんかいします。しかし…。

 尊氏は長男の義詮よしあきらを2代将軍、次男の基氏もとうじを鎌倉府の長官(鎌倉公方かまくらくぼうとしました。どちらも正室である赤橋登子あかはし とうしの男子です。鎌倉府は関東などを支配しました。また一門(一族や重臣)を各国の守護に任命し、南朝との戦いや荘園の支配に当たらせました。鎌倉時代の守護と比べて、権限が格段に強まっていました。この鎌倉府は、公方が代替わりを繰り返すうちに、次第に室町幕府と対立するようになります。

 室町時代に日明貿易が盛んになると、明からさまざまな品物が輸入されました。県内の中世遺跡からも、国産の陶器に交じって青磁せいじ白磁はくじの破片がよく出土します。流通を支えた銅銭は中国から大量に輸入されました。大甕おおがめに入れて埋めた状態で出土することもあります。中世のお金持ちたちも、貯金が大好きだったのですね。

埼玉県蓮田市新井堀の内遺跡出土の国内最大級の埋蔵銭(写真提供:[公財]埼玉県埋蔵文化財調査事業団)

* 宇都宮氏の配下だった益子氏と芳賀氏の武士団

《キーワード》銅銭
中世日本では貨幣は鋳造ちゅうぞうされませんでした。その理由の一つに、中国の銅銭の方が東アジアで広く流通していて、信用度が高かったためです。一方、通貨量の不足にはいつも悩まされていたようで、京都や堺では盛んに私鋳銭しちゅうせんが造られていました。通貨の信用と供給量は、現代にも通じる大問題です。

(文/足利市文化財専門委員 齋藤 弘

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