日本で戦国時代が始まった15世紀後半、ヨーロッパではポルトガルやスペインがアジアへの新たな航路の開拓を進めました。16世紀になると、ヨーロッパではルネサンスが最盛期を迎える一方、ローマ教皇やカトリック教会に対する批判から宗教改革が始まりました。
カトリック教会側では宗教改革に対抗するため、アジアへの布教に力を入れました。その中心となったのが、ポルトガルやスペインの支援を受けた男子修道会であるイエズス会でした。16世紀中頃、ポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられ、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた背景に、このようなヨーロッパの情勢がありました。
日本で布教活動を進めていた宣教師たちは、さまざまな情報を手紙に書いていました。そんな中に足利学校のことも出てきます。ザビエル自身も「日本において最も有名で、最も大きい大学(アカデミア)は坂東(関東地方)にある」と手紙に書いていました。布教を目指す宣教師たちは手強い相手と思っていたのですが、当時の足利学校は決まりによって仏教を教えていませんでした。では何を教えていたかというと、中国の古典や儒教・道教などでした。
とはいえ先生は、高い学識を持った禅宗のお坊さんたちで、建物も禅宗のお寺に多い方丈が中心でした。これらの学問は仏教の側から外典とされ、寺院ではあまり重んじられなかったのですが、この分野に特化したことで日本中から学生が集まるようになりました。最盛期には学徒3,000人。このような学校は、東アジア文化圏では大変ユニークだそうです。
中でも易学(占い)は当時の戦国大名によって大切にされ、足利学校で学んだ卒業生の中には戦国大名に仕える者も多くいました。かの武田信玄も軍師の採用にあたり、「占いは足利にて伝授か?」と尋ねたとあります。当時の人々にとって占いは、単に未来を予見する呪術ではありません。戦争だけでなく世の中の動きを理解する「先端技術」でした。
当時の足利学校は、入学時に束脩(贈り物)を納め、僧になることが条件でしたが学費は無料だったようです。クラスも学年も時間割もなく、自分が十分に満足したら卒業。学生は近くの民家や寺に寄宿し、自分で学びたい分野の本を読んで書き写したり、先生の講義を聞いたり質問したり議論したりしました。こうした自学自習のスタイルは、単位制高校にほんのちょっとだけ近いですかね。校内にはまた、儒教の祖である孔子を祭る孔子廟(大成殿)もありました。こちらは東アジアで儒教を学ぶ学校には必ずある建物です。
足利学校のたたずまいから、中世から近世に変わる激動の世界情勢、東アジアに共通する学問と信仰、ユニークな教育のあり方などに思いをはせることができます。
「応仁の乱などの戦乱により、多くの公家や文化人が地方の戦国大名をたよって都から下り、地方に京都の文化を広めた」といわれますが、それを積極的に受け入れて育てた地方のことも忘れてはいけないでしょう。連歌師宗祇)の紀行文には、下野各地で開かれた連歌の会が記されています。天明(佐野市)鋳物師の手による茶釜は、九州の芦屋と並んで全国で珍重されました。県内の中世遺跡からも茶道具や茶器が出土しています。さらに日光山は、中世を通して宗教文化の拠点であり続けました。
(文/足利市文化財専門委員 齋藤 弘)