皆さんは、源氏と平氏どちらが好きですか? なぜそう聞くかといいますと、武士の時代をつくりあげた源頼朝は英雄視され、平清盛とその一族は権力に物を言わせた一族として、悪者扱いされる小説やドラマが多いように見えるからです。この印象は、軍記物語である「平家物語」がつくり出したものともいわれています。
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉は、権力を持った一族を象徴しています。この言葉は、集団で協調して稲作を行う農耕民としての日本人の気質に反しているので、嫌われる要素になったと考えられます。武士として清盛は、平治の乱(1159年)の戦い方を見ても分かるように相当強く、戦上手な人でした。また、貴族の中にあっては政治手腕を発揮し、現在のワンマン社長のような振る舞いをしていたようです。
では頼朝はどうだったでしょうか? 頼朝が挙兵した石橋山合戦(1180年)では負けており、源平合戦でも都から平氏を追い出したのは頼朝のいとこにあたる源(木曾)義仲でした。また、壇ノ浦(*1)で平氏を滅亡させたのは、東国の武士たちを率いて戦った頼朝の弟である義経で、頼朝は戦闘の際ほとんど最前線にはいません。
そんな頼朝がなぜ鎌倉に幕府をつくることができたのでしょうか? それは鎌倉幕府成立後の将軍家と御家人(*2)との関係(御恩と奉公)が、頼朝の父・義朝や祖先の義家の頃から源氏と東国の武士たちの間に存在していたからです。
保元(1156年)・平治の乱に負けた源氏一門とその配下の東国の武士たちは、平氏の下働きのような扱いを受けていました。そのようなみじめな立場となっていた時、治承4(1180)年4月に平氏打倒の手紙が京都の以仁王から頼朝の元へ届きます。そして、頼朝から東国各地の武士たちへ戦に参加するよう命令が下ると、平氏に虐げられていた多くの源氏派の武士たちが頼朝のもと下へ集まったのです。
源平合戦で活躍した下野の武士団の中に、平将門を打倒した藤原秀郷の子孫にあたる小山一族がいました。小山一族は政光の妻(後の寒川尼)が頼朝の乳母(養育係)を務めたことから、小山一族の長沼氏(*3)や結城氏、下河辺氏(*4)と共に源氏の味方となりました。そのほか、宇都宮氏や佐野氏、県北の那須氏なども西日本各地での平氏追討の戦いに参戦しました。
「平家物語」には、源平合戦最大の戦いとして一の谷合戦(兵庫県神戸市)、屋島合戦(香川県高松市)が挙げられ、東国武士たちと平氏の重臣たちとの戦いが緊迫感と臨場感あふれる表現で描かれています。一の谷で平氏の陣の背後かの崖から奇襲した「鵯越の逆落とし」や屋島で那須与一宗隆が扇の的を弓で射貫抜くシーンは有名です。怪談「耳なし芳一」の中で語られる壇ノ浦での安徳天皇入水の場面なども当時、宮廷の女官たちが涙ながらに聞いた場面と考えられます。
*1 長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)にある海峡
*2 鎌倉時代、将軍に仕えた武士のこと。将軍に仕える代わりに、支配地や家を保証された
*3 現在の真岡市長沼八幡宮周辺に領地を持った一族
*4 現在の茨城県古河市周辺に領地を持った一族
「平家物語」は、12世紀後半に政治の実権を握り栄えた平氏一族が滅びるまでの過程を中心に描いた物語です。しかし、いつ、誰が作ったかはっきり分かっていません。現在知られている「平家物語」は、今から700年近く前の南北朝時代に活躍した琵琶法師(ルビ:びわほうし)の覚一(ルビ:かくいち)が完成させたといわれています。
(文/下野市教育委員会文化財課 山口 耕一)