建保7(1219)年正月、鎌倉幕府第3代将軍源実朝は、足利義氏、阿曽沼広綱、小野寺秀通(それぞれ、現在の足利・佐野・栃木市周辺の豪族)、塩谷朝業(現在の矢板市周辺の豪族)を従え、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)を参拝します。参拝後、実朝が正面階段を下りてくると、その脇の大銀杏の陰に隠れていた兄頼家の子公暁に切りつけられ絶命、公暁も惨殺され頼朝の直系は途絶えました。この出来事で東国の武士たちも都の貴族たちも混乱し、鎌倉幕府は危機を迎えます。
その後、政子は京都から頼朝の血縁となる九条頼経(当時2歳)を将軍として迎え、北条義時を鎌倉幕府第2代執権として、2歳の将軍をサポートする「執権体制」による政治が行われました。しかし、都の朝廷側勢力は、武家政権打倒を目指し幕府を討伐しようとします。承久3(1221)年5月には、後鳥羽上皇が頼朝の妻・北条政子の弟で鎌倉幕府第2代執権(*)の北条義時追討の命令を出します。この時、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の重臣の中から、小山朝政・長沼宗政・宇都宮頼綱・足利義氏たちを選び、密かに味方に引き入れようとします。それを知った政子は、鎌倉幕府の武士たちの前で、頼朝の御恩は「山よりも高く、海よりも深い」と涙ながらに演説を行います。これを聞いた鎌倉武士たちは、涙ながらに幕府に忠誠を誓います。
5月22日早朝、小雨降る中、京都に向けて義時の子泰時とわずか18騎は鎌倉を出発します。しかし、京都に到着したときには総数19万騎の軍勢まで増大、戦いに負けた後鳥羽上皇は隠岐(現在の島根県の日本海に浮かぶ島)へ配流されます。
貞永元(1232)年、第3代執権北条泰時が「御成敗式目」を発布します。これは「武士とはどのようにあるべきか」を記した法律です。そんな武士のあるべき姿を象徴する物語が能の「鉢の木」です。
雪の日の夜、ある貧しい武士の家に旅の僧が訪れました。武士は大切にしている鉢植えの木を燃やし、この僧に暖を取ってもらいます。このとき、武士はどんなに貧しくても鎌倉に何かあった時には「いざ鎌倉」で駆け付けると僧に話します。この僧が引退した第5代執権の北条時頼で、貧しい武士とは佐野源左衛門常世といい、後日緊急の呼び出しに応じて鎌倉へ駆け付けた常世に対し、時頼はあの日の僧は自分だと告げ、言葉通り本当に駆け付けた常世に新たな領地を与えました。
この物語に象徴されるような主人と従者による「御恩と奉公」の関係は、慶応3(1867)年の大政奉還まで約650年間続くことになり、武家社会を支えていました。
* 鎌倉幕府の将軍の補佐などを行う職名
「鉢の木」の舞台は「佐野の里」。この「佐野」が、現在の群馬県高崎市上佐野町なのか、栃木県佐野市なのかはっきりと特定されていません。高崎市には常世にまつわる「常世神社」が、佐野市鉢木町の願成寺には常世のものとされる墓(佐野市指定史跡)がそれぞれあります。
(文/下野市教育委員会文化財課 山口 耕一)