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(社会科コラム10)意外としたたか戦国時代の下野有力者

2022.03.18

 京都では応仁の乱が収まった後も混乱が続き、下克上の世である戦国時代となっていきます。これに先立ち東国では、鎌倉公方が室町幕府と厳しく対立し、幕府の支援を受けた関東管領上杉氏との間に戦乱が始まりました。これを享徳の乱きょうとくのらん(1455〜83年)といいます。鎌倉公方は間もなく古河(茨城県古河市)に本拠地を移しました。以後「古河公方こがくぼう」と呼ばれます。当時は利根川の下流を大軍で渡ることが難しく、幕府軍はわざわざ中流まで迂回して渡河とがし、東の古河に向かって進撃しました。このため、困ったことに、下野南部が何度も主戦場となってしまったのです。

15世紀後半(享徳の乱時点)の関東の勢力図(『戦乱でみるとちぎの歴史』下野新聞社、2020年より)

 それから約100年後の戦国時代の後半期。教科書などには、主な戦国大名の勢力地図が載っています。越後(新潟県)の上杉氏と相模(神奈川県)の北条氏が、関東の支配権を巡って激突している様子が読み取れます。下野はどうだったでしょうか。鎌倉以来の宇都宮氏、小山氏は昔日せきじつの勢いはなく、那須氏、塩谷氏、佐野氏、足利長尾氏などの諸勢力が各地に乱立していました。上杉謙信が三国峠みくにとうげ(新潟県・群馬県)を越えて関東に侵入すると、謙信に従って北条氏と戦い、謙信が帰国すると今度は北進する北条氏に屈服せざるを得ませんでした。今も昔も、強大な勢力に挟まれた中小勢力の生き残りはしんどいですね。宇都宮氏は巨大な多気城たげじょうを築いて拠点を移しました。小山氏はとうとう本拠の祇園城ぎおんじょうを北条氏に明け渡してしまいました。この直後、祇園城に大規模な改修が加えられたことが、発掘調査によって明らかになっています。現在は「城山公園」となっていますので、お近くの方はぜひ見学に行ってみてください。

祇園城跡(小山市)

 生き残ることがしんどかったのは庶民も同じでした。戦争のたびに重税を課せられ、軍勢が通過すれば手ひどい略奪に遭いました。この時代は地球の気候も寒冷化(小氷期しょうひょうき)し、災害、不作、疫病にも苦しめられました。しかし、庶民は負けてはいませんでした。例えば橋本郷(現・足利市山川町)の農民は連名で申状を提出し、戦乱で収穫が無かったにもかかわらず年貢を取られたことに不服を申し立てています。村の人々が話し合って協力し、生活を守るためにしっかりと権利を主張したことが分かります。飛山城跡とびやまじょうあと(宇都宮市)や茂木城跡(茂木町)に行ったことのある人は思い出してください。妙に広いと感じませんでしたか? 戦国時代には、庶民が逃げ込む場所を用意した城もありました。そんな城だったら、庶民も積極的に築城に協力したでしょうね。華やかさはなかったけれど、しぶとく生き抜いて現代に遺伝子を伝えてくれた先祖に、ただただ頭が下がる思いです。

《キーワード》村の自治

近畿地方の惣村そうそんでは、農民が団結して自治を行いました。有力者や年長者が中心となって寄合を開きいろいろなことを自分たちで決めました。乱世の関東でも、きっと同じような動きがあったことでしょう。さまざまな激甚災害が予想される近未来、こうした歴史が参考になることも、少なからずあるように思えます。

(文/足利市文化財専門委員 齋藤 弘

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