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(社会科コラム11)豊臣秀吉の全国統一と下野の大名たち

2022.04.08

応仁の乱から約100年後、尾張(現在の愛知県西部)の織田信長が上洛を果たし、やがて全国統一が進められました。この動きは下野にも影響を与えました。皆川広照みながわひろてる(現在の栃木市皆川を本拠地とする大名)が信長に名馬3頭を贈ったところ、大いに喜ばれたとの記録が残っています。広照の狙いや当時の情勢など、図書館やインターネットで調べてみると面白いですね。

皆川氏はまた、現在の栃木市の基礎を築いた武将でした。それまで湿地であったところに栃木城を築き、寺社を集めて街道を通し、新しい城下町を建設しました。防御力の高い山城の皆川城から交通の便がいい平地に進出し、商品の流通を盛んにして商工業の発展を促す政策は信長の考え方にも共通します。江戸から明治時代にかけて、水運・街道・商業で大いに繁栄した栃木は、ここに始まるといえるでしょう。

信長の後を継いだのが豊臣秀吉でした。秀吉は1590年小田原城を包囲して北条氏を降伏させました。関東や東北の大名や国衆くにしゅう(その土地に住む武士のこと)も、以後はみな秀吉に従うことになり、秀吉は全国統一を成し遂げました。その後秀吉は宇都宮城において、諸大名の新しい配置を決めたとされています(宇都宮仕置うつのみやしおき)。これによって、壬生氏など所領を没収された大名、宇都宮氏などその後間もなく取潰とりつぶしになった大名もありました。これに先立ち、戦国時代末に領地を失った小山氏などもいて、わずかな期間に下野の大名・国衆のほとんどが入れ替わってしまったことが分かります。なおこれらの中には、子孫が旗本はたもと*になったり、水戸藩や秋田藩に仕えて現代に至っている家も多くあります。皆さんの地元の大名がどうなったか、興味を持ったら調べてみてください。

宇都宮氏の家臣たちが守ってきた「宇都宮家の墓所」(益子町)

秀吉が支配する日本で、その本拠地である近畿地方の技術を導入して築かれたのが、佐野市唐沢山城の高石垣です。秀吉による小田原城包囲の折、唐沢山城では城主佐野氏忠は北条氏に味方していましたが、内紛を経て秀吉派である佐野房綱(天徳寺了伯)が実権を奪いました。北条氏滅亡後は秀吉の家臣の子である佐野信吉を養子に迎え、新しい城主としました。信吉は西国の技術で唐沢山城の大改築を行ったと推定されます。唐沢山神社の石段の下を、向かって左手に入っていくと、見上げるような高石垣に出会合えます。チャートの自然石を用いて、横方向のきれいな目地が通る積み方は見事です。お近くの方はぜひお出掛けください。最近では岩合光昭さんの猫の写真でも話題になりました。

唐沢山城跡に残る高石垣(佐野市)

*江戸時代、徳川将軍家直属の家臣団のうち、知行(給料)1万石未満で将軍に面会できる身分のこと

《キーワード》楽市・楽座

それまでの商工業は、寺社や同業組合(座)によるさまざまな決まり事がありました。また地域の支配者によって、さまざまな税金がかけられていました。これらをフリー(楽)にすることによって、人々は自由に品物を作って売ることができるようになり、その結果領国の経済が発展すると人口も増えて、戦国大名も鉄砲を大量に買いそろえるなど、軍事力を高めることができました。

(文/足利市文化財専門委員 齋藤 弘

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