皆さんもよく知っている源頼朝や平清盛といった武士が、その祖先をたどると実は皇室の出身だった、と聞くと驚くかもしれません。頼朝の「源氏」は清和天皇、清盛の「平氏」は桓武天皇から分かれた一族でした。
彼らの祖先は、一族が増えて都周辺の領地が少なくなったため、清盛の先祖は東国(関東地方)の常陸国(現在の茨城県)に、頼朝の先祖は相模国(現在の神奈川県)にそれぞれ移り住みました。東国で彼らは天皇の一族の高貴な人たちとして尊ばれ、武芸にも優れていました。そして、東北地方で朝廷に従わない「蝦夷」と呼ばれる人たちを制圧する軍団の長、征夷大将軍や鎮守府将軍*1に任命され、豪族として東国に勢力を広げました。
平安時代の中ごろには、律令(法)制度を守らない国司*2などが増えたため地方の政治は乱れます。役人に代わって豪族が武力を背景に争いごとの仲裁などを行ったことから、民衆からも信頼されました。
清盛の6代前の平貞盛の時代(935~940年ごろ)には、下総国(現在の茨城県南部・千葉県北部)の領地を巡って一族の中で大きな争いが起こります。この争いこそ、古代東国最大の内乱となった平将門の乱です。乱を起こしたのは貞盛と従弟の平将門で、将門の父は鎮守府将軍でした。
最初、この乱は一族やその周辺の豪族同士の争いでした。しかし、将門が常陸国府と戦ったことから、国家に逆らった罪となり大きな戦となっていきます。将門は下野国府(現在の栃木市)や上野国府(現在の群馬県前橋市)などを次々に攻め、朝廷から独立した新しい国を東国につくろうとしました。それに対して朝廷は、将門を討つための軍隊を送りますが、都の兵たちは将門が怖くてなかなか東国にたどり着けません。そこで、貞盛と現在の佐野市周辺に勢力を持っていた下野国の豪族・藤原秀郷が協力して戦い、将門を打ち破りました。
当時、税の取り立てなどに厳しかった都の朝廷と戦った将門は、死んでからも東国の人たちに敬われました。東京の神田明神には将門が祭神として祀られています。また、東京大手町の「将門塚」は、討ち取られ京都に送られた将門の首が「勝つまで戦う」と都から身体を求めて飛んできたという伝説の地で、今でも触るとruby>祟が起こると恐れられています。
あまりにも強かった将門を討ち取った秀郷にもさまざまな伝説が残されています。そして佐野市の唐澤山神社には、秀郷が身に着けたという鎧や兜の一部が残されています。
*1:現在の宮城県多賀城市に築かれた前線基地の多賀城を「鎮守府」と呼びますが、そこの長官のこと
*2:国から地方へ派遣された役人で、現在の都道府県知事に当たる
将門を討ち取った秀郷の曽祖父が都から下野国へやってきたのは、9世紀前半といわれています。そして将門を討ち取った功績により秀郷が鎮守府将軍職に就いたことで、秀郷の子孫である下野国の小山氏や藤姓(ルビ:とうせい)足利氏も、武家にとって格式ある一族として周りから一目置かれる存在でした。
(文/下野市教育委員会文化財課 山口 耕一)