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(社会科コラム6)金太郎のモデルは栃木ゆかりのイケメン「下毛野金時」だった。

2022.01.22

平将門たいらのまさかどの乱に勝利した平貞盛やその子供たちは、下野守しもつけのかみ陸奥守むつのかみなど昇進を遂げていきます。平氏一族は、東国とうごく常陸国ひたちのくに(現在の茨城県)を中心として東国各地に領地を広げていきます。

しかし、一族の平忠常たいらのただつねが1028年に常陸国で乱をおこします。それを平氏一族の中で鎮めようとしますが失敗し、代わって源氏一族が乱を平定します。これをきっかけに、平氏一族は東国よりも伊勢国(現在の三重県)に本拠地を移し、源氏一族から東国や東北各地の受領ずりょう*に任命される者が多くなり勢力が拡大しました。さらに、源氏は朝廷や藤原氏などの貴族との強い結びつきから、摂津せっつ河内かわち(現在の大阪府)、大和やまと(現在の奈良県)など、都に近い諸国にも領地を持つこと成功します。

摂津国を治めた源頼光みなもとのよりみつは、夜な夜な都に出現する鬼を家来とともに退治したという伝説をもつスーパースターでした。この家来の一人が坂田金時さかたきんときという武士で、子供の頃の名前が「金太郎」。携帯会社のCMでマサカリをかつぎ、〇の中に「金」という腹掛けをしている、あの金太郎です。

この金太郎にはモデルがいました。下毛野金時しもつけのきんときという下野国ゆかりの武士です。金時は天皇や皇族が暮らす宮中や藤原道長ふじわらのみちながの警備をしていた人物です。金時は天皇の側で警備などの仕事を行う近衛府このえふの職員の中で「第一の者」と言われ、武芸に優れた人物でした。今風に言うと背が高くてイケメン。しかも18歳という若さで亡くなった後も、宮中の女官にょかんたちに人気が高かったことから長い間語り継がれ、坂田金時伝説が生まれ金太郎になったと想像できます。

浮世絵師の歌川国芳による武者絵で、酔いつぶれている酒吞童子を斬りつけようとする坂田金時(手前、「源頼光以下六勇士、鬼退治之図」、東京都立中央図書館特別文庫室蔵)

1051年ころから蝦夷地えぞちと呼ばれた東北地方(奥州)を治めていた安倍氏は、朝廷への納税を拒み「前九年の役」「後三年の役」と呼ばれる内戦が起きました。朝廷はこの内乱を鎮圧するため、頼光の弟頼信よりのぶの子の頼義よりよし義家よしいえ親子を東北に派遣し、安倍氏を破ります。

後三年の役は義家が鎮圧しますが、朝廷では義家が勝手にやったこととして恩賞を与えません。そこで義家は、自らの領地を減らしてでも家来や協力した武士たちに褒美ほうびを与えたことから、源氏は武士の世界で強くて頼りになる「武家の棟梁ぶけのとうりょう」となっていきました。

義家の子のうち、義国の長男義重よししげが上野国新田にった郡(現在の群馬県太田市)を開発した新田氏の、二男義康よしやすが下野国足利荘あしかがのしょう(現在の足利市)を領した足利氏のそれぞれ先祖となります。ちなみに、義国の兄義親よしちかのひ孫が鎌倉幕府を開いた源頼朝で、頼朝の父義朝よしともの妻と義康の妻同士が姉妹という近しい関係を結んでいました。

源義家がつくったといわれる足利氏ゆかりの下野國一社八幡宮(足利市八幡町)

* 平安時代における国司の別名。現地に赴いた人のうちの最高責任者をいう

《キーワード》源義家
幼い頃「八幡太郎はちまんたろう」と呼ばれた源義家は武勇に優れた武士でした。栃木県内には、義家が「前九年の役」「後三年の役」に勝利を祈ったという神社があります。下野國一社八幡宮しもつけのくにいっしゃはちまんぐうや那須神社(大田原市)のほか、頼義・義家親子が弓と鏑矢かぶらやを奉納したと伝わる薬師寺八幡宮(下野市)があります。

(文/下野市教育委員会文化財課 山口 耕一

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