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(社会科コラム15)本県自慢の日光だけど・・・昔の庶民には苦労が多かったかも

2022.05.27

「栃木県を代表する名所は?」と聞かれれば、多くの人が日光市にある日光東照宮を挙げるでしょう。日光東照宮に祭られているのは、江戸幕府を開いた徳川家康です。家康は1616年4月に亡くなりますが、遺言で「遺体は駿河国久能山くのうざんに葬ってほしい。そして自分は関八州かんはっしゅう(関東)の守り神になるので、一周忌が過ぎたら下野国の日光山にっこうさん*に小さなお堂を建ててほしい」と言い残しました。幕府は遺言に従って翌年4月、日光山に東照社(のちの日光東照宮)を建て、家康のひつぎを移しました。。

東照宮が成立したことで日光山は江戸幕府の聖地となり、江戸時代の栃木の歴史に大きな影響を与えました。まず東照宮を建て、その後の改修によって日光に向かう人や物が急増しました。乙女河岸おとめがし(小山市)は東照宮の部材を川から陸に揚げて運ぶ拠点になったといわれています。小山から壬生・鹿沼・今市を通って日光に向かう街道「壬生通みぶどおり」も整備され、沿線の宿場や村が発展しました。また、現在の日光市と鹿沼市北部一帯の村は、日光山を維持するための「日光神領にっこうしんりょう」と呼ばれる広大な領地になりました。

乙女河岸歴史公園(小山市)

歴代の将軍たちは、大勢の大名や家来を連れて東照宮に参詣しました。将軍や大御所おおごしょ(隠居した将軍)などによる参詣は「日光社参にっこうしゃさん」と呼ばれ、江戸時代を通じて19回行われています。

1643年からは京都の朝廷から公家くげが派遣されるようになりました。この公家は、「日光」に「例」年、「へいはく(みつぎ物)を奉納する「使」いであったので 「日光例幣使にっこうれいへいし」と呼ばれました。例幣使は沿道の庶民から尊敬と崇拝を受けたといわれており、人びとは例幣使を拝むために沿道に出か掛けました。

東照宮 金ノ御幣。例幣使は行く先々で金の幣束を切り刻んだものを配った。庶民はこれをお守りにした(鷹見泉石関係資料/国指定重要文化財/古河歴史博物館蔵)

しかし、社参や例幣使が実際に沿道の人びとから歓迎されていたのかというと、必ずしもそうとは言い切れませんでした。1728年の社参では将軍のお供だけで4,000人が日光に向かいました。これとは別に大名たちも家来を連れて日光に向かうので、その人数は計り知れません。芳賀郡東水沼村(現在の芳賀町)の名主は8万400人余りの行列だったと記録に残しています。この行列を各地で世話をするのは沿道の村で、不足するときは遠くの村にも動員の命令がありました。この時は今市宿(日光市)の手伝いに烏山や大田原の村から人馬が出されています。例幣使一行は50人から70人ほどと小規模でしたが、各地で金銭や規定以上の人馬の提供を要求して何度も問題になりました。

沿道の宿や周辺の村に暮らす人びとにとって、日光に向かう公用交通の世話をすることは大きな負担になり、江戸時代後半になると村が困窮する原因となっていきます。

*江戸時代、日光山輪王寺や日光二荒山神社など、現在の日光市山内地区にあるお寺や神社をまとめて呼んだ名称で、実際の山とは異なる

《キーワード》世界遺産「日光の社寺」

日光東照宮は、1617年に造営された後、1636年に建て替えられて現在の姿になりました。江戸幕府が倒され明治時代になると一時的に荒廃しますが、幕府の旧臣や栃木県の有力者たちが「保晃会ほこうかい」という組織をつくって保護活動を行い、現在に伝えられました。1999年には日光東照宮・日光二荒山ふたらさん神社・日光山輪王寺りんのうじとこれらを取り巻く遺跡が「日光の社寺」としてユネスコ世界遺産に登録されています。

(文/鹿沼市教育委員会文化課 堀野 周平

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