最近の医療や福祉などの社会保障のニュースを見ていて「自助・共助・公助」という言葉を耳にしたことがあると思います。ところで今から約250年前の下野国に、自ら共助(地域コミュニティの力)を実践しながら、公助(国や地方自治体の力)の大切さを訴えた人がいました。それが鈴木石橋です。
鈴木石橋は1754年に鹿沼宿(現在の鹿沼市)の裕福な庶民の子として生まれました。幼いころから勉強が得意だった石橋は、23歳の時に勉学のため江戸に行きました。江戸で当時、最高峰といわれる塾の一つに、幕府に仕える学者の一族である林家が運営している塾があり、石橋はそこに入りました。この塾に下野国から庶民で入塾したのは石橋が初めてでした。
29歳の時、石橋は鹿沼に帰ってきました。その翌年に彼の人生を大きく変える事件が起こります。それが天明の飢饉です。1783年7月、上野国(現在の群馬県)・信濃国(現在の長野県)の浅間山が大噴火し、下野国にも火山灰が降り積もって農作物が不作になりました。石橋は父親から命じられ、噴火の翌日から人びとに食べ物やお金を配って助ける活動を始めました。
石橋は江戸時代に盛んにおこなわれていた妊娠中の子どもをおろす堕胎や、生まれたばかりの子どもを殺す間引きの防止にも力を注ぎました。貧困家庭には子どもが大きくなるまで衣服や金銭を援助しました。また、堕胎を考えている人がいればやめるように説得し、子どもを自ら引き取って養育することもありました。助けた子どもの数は500人以上にもなり、石橋の家は常に子どもがたくさんいたといいます。
石橋はより良い社会の実現のためには、教育も大切だと考えていました。そのため、自宅に「麗澤之舎」という塾を開き、各地の若者たちに学問を教えました。教え子の中には、後に「寛政の三奇人」の一人に数えられる宇都宮の蒲生君平がいます。石橋の影響で、鹿沼宿はどんなに貧しい家にも本があったといいます。
このように石橋は共助を実践した人でした。一方、石橋が書き残したものを見ると、公助も大切だと考えていたことも分かります。飢饉については「自然が起こすことなので防止できないが、混乱する社会を救うか、救わないかは人の力に懸かっている」と書き、公的に食料を備蓄する必要性を説いています。教育についても武士だけではなく庶民の教育も大切なので、公立学校を作るべきだと主張していました。
石橋は晩年には宇都宮藩に招かれて、藩の学問所で武士たちに学問を教えるようになりました。1815年、病気で亡くなった時には宇都宮藩主から弔いの使者も送られています。
私たちの生きる現代社会は、より良い社会の実現のために生きた鈴木石橋の目にどのように映るでしょうか。。
2020年に首相に就任した菅義偉氏が目指す社会像として掲げたことから注目されるようになりました。共助の役割を大きくするため、政府は福祉分野における地域の包括的な支援・サービス提供体制(地域包括ケアシステム)の構築を進めており、県内でもその拠点である地域包括支援センターが99か所設置されています(2022年4月現在)。その一方、自助・共助を強調することは公助の役割を放棄することにつながるという批判もあります。。
(文/鹿沼市教育委員会文化課 堀野 周平)