「地方から都市部への人口流出」「耕作放棄地の増加」「農村部の荒廃」。現代社会の問題として新聞やニュースで取り上げられるテーマですが、これらは江戸時代の下野国の人びとが直面した問題でもありました。
江戸時代後期、関東の村落部では都市部への人口流出とそれに伴う耕作放棄地の増加が問題になっていました。中でも荒廃が著しかったのは下野国であるといわれています。下野国では1721年に約56万人だった人口が、1846年には約37万8千人にまで減少していました。この村落の復興事業に力を尽したのが二宮金次郎です。
二宮金次郎は1787年に相模国(現在の神奈川県)の百姓の家に生まれました。努力の末、没落した二宮家の再興を果たし、領主である小田原藩家老の家政再建に貢献したことから、35歳の時に同藩の分家宇津家が治める下野国桜町領(現在の真岡市)の復興(立て直し)を任されることになりました。こうして金次郎は家族とともに下野国にやってきます。
当時の桜町領は直近100年間の間で人口が半分以上減り、多くの田畑が荒地になっていました。そのため、宇津家の財政も大きな赤字に苦しんでいました。金次郎は桜町領で10年にわたって立て直し事業に取り組み、復興を果たします。最後の年には米の収穫量が事業開始前の2倍になったため、宇津家と領民から頼まれて、桜町領での事業を5年延長しました。
この事業を通して確立された金次郎の復興策を「報徳仕法」と呼びます。報徳仕法は各地で反響を呼び、各地からは金次郎の教えを受けようと弟子たちが集まるようになりました。天保の改革を進めていた江戸幕府も報徳仕法を評価し、金次郎を幕臣に取り立てました。
そして金次郎は67歳の時に、全耕地の23%が荒地になっていた日光神領89カ村(現在の日光市全域と鹿沼市北部)の復興を命じられます。金次郎は、今市宿(現在の日光市今市)に拠点を設けて仕法を開始しますが、その矢先に病に倒れて亡くなってしまいました。仕法は息子に引き継がれて江戸幕府がなくなるまで続けられました。日光神領の仕法の成果は荒地復興、新規開発、植林を合わせて4.79㎢(東京ドーム約102個分)にもなりました。
県内には金次郎一家が暮らした桜町陣屋をはじめ、報徳仕法にまつわる史跡が多く残されています。また、真岡市の二宮尊徳資料館や日光市の二宮尊徳記念館では多くの貴重な資料を見ることができます。ぜひ金次郎ゆかりの地を訪れて、下野の人びとのために生涯をかけた彼の思いを感じてほしいと思います。
報徳仕法は、復興資金の貸し付けやよく働く者の表彰、荒地の開発、用水路等の整備、新しい住民の呼び込み、仕事の紹介などさまざまな方法を組み合わせて農村復興を目指したものです。金次郎は事業を拡大して得たお金を蓄えて「報徳仕法金」という財源にしました。この仕法金を使った荒地復興事業は栃木県にも引き継がれ、栃木県の近代産業育成のための資金になりました。
(文/鹿沼市教育委員会文化課 堀野 周平)