日光市の神橋の手前には、明治時代に自由民権運動を主導した板垣退助の銅像が建っています。この像は、昭和4(1929)年に建てられた像を戦後に再建したものです。なぜ、板垣の像が日光に建てられているのでしょうか。その理由は、戊辰戦争のあるエピソードにあります。
慶応4(1868)年1月、旧幕府軍と新政府軍が鳥羽・伏見で激突し、戊辰戦争が始まりました。戊辰戦争というと現在の福島県会津若松市や北海道函館市の五稜郭の戦いなどが有名ですが、下野国も戦場になりました。
下野国が戦場となった理由は二つ挙げられます。一つは東北地方への入り口に当たること。旧幕府軍の中心となったのは東北の諸藩でした。もう一つは、旧幕府軍が徳川家の聖地「日光」に集まったことです。その結果、梁田宿(足利市)、小山宿(小山市)、宇都宮城(宇都宮市)、今市宿(日光市)、大田原城(大田原市)、三斗小屋宿(那須塩原市)などで戦闘が行われ、中でも宇都宮は城下の大半が焼失する大きな被害を受けました。
戊辰戦争の時、板垣は東山道軍の参謀として軍を指揮していました。板垣率いる一軍が壬生に到着したとき、部下の土佐藩兵たちが「日光山は徳川家康を祭っている廟(びょうであり、豪華で非常におごっていてぜいたくです。そして賊(旧幕府軍)が拠点としています。焼き討ちして天と人の怒りを見せるべきです」と主張しました。これに対して板垣は、「徳川家は長く国家を経営してきた。その廟に放火して軽々しく200有余年の功績を捨てるのは道理をわきまえていない」となだめ、飯塚宿(小山市)台林寺の僧を使者にして旧幕府軍に日光から退去して決戦をするように呼び掛けました。この呼び掛けに旧幕府軍が応じて日光から撤退したため、社寺は戦火を免れたといいます。
こうして社寺を戦火から守った英雄として日光に板垣の像が建てられました。しかし、この話は板垣を戊辰戦争の英雄としてたたえた伝記「板垣退助君伝」に書かれているもので客観的ではありません。当時、板垣と日光を攻めた谷干城も、徳川家に恩のある土佐藩の兵が東照宮への放火を提案するはずがないと否定しています。実は谷も、日光山の僧を通じて旧幕府軍に日光からの撤退を勧めていました。一方、日光山の旧幕府軍も社寺が戦火に遭うことを心配していました。また、食料や銃弾も不足していました。結局、旧幕府軍は日光から撤退して会津へと転進することになります。
このように現在では、板垣の働きだけではなく、いろいろな事情から日光は戦火を免れたと考えられています。
戊辰戦争による戦火を免れた日光の社寺でしたが、本当の危機はこの後に訪れました。幕府の保護を失ったため荒廃するようになったのです。そこで明治12(1879)年、栃木県議会議長の安生順四郎をはじめとする県内の名士たちの呼び掛けで結成されたのが、日光の社寺を保護する団体「保晃会」です。全国に会員を広げた保晃会は、大正5(1916)年に解散するまで日光の文化財の保護・修繕を行いました。
(文/鹿沼市教育委員会文化課 堀野 周平)