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(社会科コラム20)烏山藩の年貢は宇都宮藩の40倍!?

2022.08.05

 江戸幕府を倒すことに成功した新政府でしたが、政権発足直後から大きな問題に直面しました。年貢をうまく集めることができなかったのです。下のグラフは当時の政府歳入の内訳です。これを見てみると、明治元(1868)年から明治2(1869)年までの歳入のほとんどが、太政官札(だじょうかんさつ)等の発行と公債・借入金であることが分かります。つまり、収入が足らないのでお札を刷ったり、借金をしたりして何とか国家を運営していたのです。そのような中、烏山では年貢の納め方をめぐって大きな事件が起きてしまいます。

新政府による歳入グラフ(慶応3[1867]〜明治3年)

 明治3(1870)年、宇都宮藩の支配所に烏山藩の領民800人が集まりました。彼らは、江戸時代から続く年貢の納め方を変えてほしいと烏山藩にお願いしました。しかしこれが認めてもらえなかったため、宇都宮藩を頼ってきたのです。その原因は、烏山藩の村々での珍しい年貢の納め方にありました。
 江戸時代、基本的に田の年貢は米で、畑の年貢は収穫物を換金してお金で納めることになっていました。しかし烏山藩の一部の村では、畑の年貢を米で納めることになっていました。つまり、畑の収穫物を売ってお金にしてから、そのお金で米を買って年貢として納めるという手続きを取っていたのです。この方法だと、米の値段が高くなると人びとの生活が苦しくなってしまいます。明治3年は全国的な凶作だったので米の値段は、天保4(1833)年と比べて11倍にもなっていました。宇都宮藩の計算によると、烏山藩の村は宇都宮藩の村の40倍も高い年貢を払わされていたのです。
 人びとの訴えに同情した宇都宮藩は、政府に対して「烏山の人びとの願いは当然のもの。維新の目標の一つには年貢を安くすることもあったはず」と説明して対応を求めました。しかし、政府は「新しい年貢の納め方を考えている所なので対応はできない。説得して村に帰せ」と返事をしました。結局、烏山の人びとの願いはかないませんでした。そればかりか、運動の指導者たちは犯罪者として処分されてしまいます。

事件から32年後に運動を記念して建てられた「圃祖法変更紀念碑」(那須烏山市宮原八幡宮)

 現代の私たちから見ると、烏山の人びとの主張は正当なものですし、効率の悪い年貢の納め方をしているならばすぐに変えるべきだと思えます。当然、政府の中では毎年の収入を安定させるため、各地でバラバラだった年貢の額や納め方を統一しようという動きが出始めていました。その一方で、軽々しく年貢の問題を扱えば、政権の崩壊につながるとも心配していました。そのため、烏山の人びとの願いを受け入れなかったのです。
 政府による抜本的な年貢の改革は、明治6(1873)年から始まる地租改正によって実現することになります。

《キーワード》地租改正(ちそかいせい(

全国でバラバラだった年貢の統一をするための政策です。土地の所有者とその価格(地価)を決め、地価の3%を租税としました。しかし、地価の算定方法を巡って不満をもった人びとによる地租改正反対一揆が全国各地で起こったため、税率は後に2.5%に下げられました。栃木県では明治8(1875)年9月から始まり、明治13(1880)年5月に完了しました。その結果、江戸時代と比べてやや減税となりました。

(文/鹿沼市教育委員会文化課 堀野 周平

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