「殖産興業」と並んで明治政府が掲げたスローガン「富国強兵」は、日清・日露戦争の勝利によって実を結びました。戦争ではいつの時代も、多くの「人」と「モノ」がつぎ込まれます。「人」とは、軍人や兵士だけではありません。彼らの使う装備や食糧などを生産する人、それらを輸送する人、はたまた外交を担当する人などさまざまです。「モノ」もまた、武器、弾薬、衣類、食糧、医薬品など多岐にわたります。このような軍需品とその生産に不可欠だったもの、それは銅です。砲弾や銃器などのほか、電線、通信機、発電機などに広く必要とされた資源でした。
栃木と銅との関わりといえば、多くの人が足尾銅山(日光市)を思い浮かべるでしょう。足尾の銅の産出量は、最盛期には日本全体の4割を占めるほど大規模なものでした。欧米の先進技術を積極的に導入し、有能な若者を留学させて技術者を育成した経営の在り方が、銅山の急速な成長をもたらしたのです。一方で、さかんに森林を伐採して山を荒廃させたこと、排出された有毒物を適切に処理しなかったことにより渡良瀬川流域に深刻な鉱毒被害をもたらしたことは、言うまでもありません。
先進技術による発展と鉱毒による汚染は、銅山の歴史を物語る上でどちらも欠かせない視点です。しかしその影に隠れて、あまり知られていないことがあります。それは、足尾が日本における労働運動のさきがけの地だということです。
イギリスで産業革命が進んだとき、劣悪な労働環境におかれた労働者が、待遇を改善するために団結して資本家に抗議する労働運動が盛んになりました。遅れて産業革命を迎えた日本でも、同様の展開が起きます。
明治40(1907)年2月、足尾銅山で働く坑夫たちが立ち上がります。世に言う「足尾暴動事件」です。同年3月発行の『風俗画報』という雑誌には、その時の様子を次のように伝えています。
下野足尾銅山に於て、多数の坑夫蜂起して、其事務所を襲ひ、火を放ちて役宅を焼き……、恐るべきダイナマイトを使用して暴威を逞うせり、……警察官の力、之を制する能ず、遂に軍隊を派遣して、七日漸く鎮定するを得たり・・・
坑道内の見張所への投石から始まった騒ぎは、銅採掘用のダイナマイトが使われたことなどにより、軍隊が出動する大暴動へと発展しました。暴動の原因は、坑夫たちが要求した賃上げに鉱山側が無反応だったばかりか、世間での物価高騰を理由に米の値段を上げたこと、そして8時間労働という規定が守られていないこと、の2点です。暴動の鎮圧後、鉱山側は坑夫の労働環境の改善に努め、賃金や治療費などを引き上げました。
その後も足尾の労働者による活発な活動は続き、大正8(1919)年には労働組合が3つも結成されています。会員数が銅山の全労働者の半分近くに当たる4,000人にまで達したことからも、足尾の労働運動の熱気が伝わってきます。
華々しい発展と表裏一体の鉱毒問題、そして立ち上がる労働者たち。足尾の姿は、近代国家としての日本の縮図とも言えるかもしれません。
江戸時代から銅を採掘していた足尾銅山は、明治時代に豪商・古河市兵衛によって買い上げられました。市兵衛は海外の進んだ技術や設備、知識を積極的に取り入れて開発を進める一方、渡良瀬川上流域では有毒な排煙、下流域では鉱毒がそれぞれ農作物や人々の健康に大きな被害を引き起こしました。そして、被害民による鉱業停止の請願運動や田中正造による明治天皇への直訴などへとつながったのでした。
(文/栃木県立博物館主任研究員 小栁 真弓)