明治政府が押し進めた近代化政策のひとつに、「殖産興業」があるのはよく知られていると思います。この言葉が具体的に何を示しているのかは、皆さんも学校でいろいろと習ったことでしょう。令和2(2020)年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の中で主人公・渋沢栄一が、自身が欧米で見聞きしてきたことを参考に、日本全体が豊かになるための方策として金融業や産業の振興に奮闘する姿が描かれていたのは、記憶に新しいところです。
日本が明治維新を迎えていたころの世界では、ヨーロッパやアメリカで絹織物の需要が高まっていたにもかかわらず、供給が追いついていませんでした。そのため、絹織物の原料である生糸の産地だった日本は、欧米にとって絶好の貿易相手となっていきます。開港以降、約80年間にわたって生糸は日本の主要な輸出品であり続けました。
「明治時代」そして「生糸」という語句の組み合わせで皆さんが真っ先に浮かべるものといえば、明治5(1872)年に群馬県に設立された官営富岡製糸場でしょう。しかしそれより先に、栃木県に開業した製糸工場がありました。その工場の名を「大嶹商舎」といいます。鬼怒川の左岸、栃木県河内郡石井村(現在の宇都宮市石井町)にありました。今はその面影もなく、住宅地や果樹園が広がっています。
この製糸工場は、宇都宮藩主・戸田家と深い関わりのあった江戸日本橋の豪商・川村家の13代・傳左衛門(迂叟という人物が、藩主・忠恕の要請を受けて設立したものです。富岡製糸場の働き手が工女たちであったことは知られていますが、ここ大嶹商舎でも、旧宇都宮藩士の婦女を工女として雇っていました。明治維新によって身分や特権が失われた武士とその家族にとっては、これは家計を支える一つの手段にもなったのです。しかも大嶹商舎の工女たちは、上野国(現在の群馬県)前橋藩が設立した前橋製糸所の工女を指導者として技術の習得に当たりました。製糸の先進地域同士のつながりがあったことがうかがえます。
さらに大嶹商舎では、近代的な動力水車を導入したことでも知られています。製糸用器械の動力源として、傳左衛門は鬼怒川の豊かな水に着目し、1.2kmほど上流の飛山城跡のあたりから用水堀を掘削しました。この用水堀は動力水車に利用されただけではなく、近隣の農民の水田を潤すためにも利用されたというのですから、産業だけでなく、地域の農業の振興にも役に立ったのだということは言うまでもありません。
こうした取り組みは国内外で話題となりました。明治天皇の行幸を筆頭に、岩倉具視・井上馨・大隈重信などの政府の要人などが多数来訪しただけでなく、明治12(1879)年にはアメリカの元大統領グラントが来日の折にわざわざ視察に訪れたほどです。高品質の製品を作ることのできる大嶹商舎の近代的な設備や技術が、日本、そして地元である栃木県や宇都宮市に及ぼした影響は、大きなものだったに違いありません。
産業革命を経た欧米の近代的な産業の発展を目の当たりにした明治政府は、官営模範工場の設立、鉄道などの交通網の整備、電信・電話などの通信網の整備、貨幣や銀行など金融制度の整備に力を入れました。栃木県内でも、製糸工場や紡績所、銅や金などの鉱山の開発、現在の幹線道路につながる主要な道路の整備などが積極的に進められました。
(文/栃木県立博物館主任研究員 小栁 真弓)