コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻、物価の高騰、政治的意見の対立、災害など、現代社会では様々なことが起きています。実は、約100年前の日本や世界でも、同じようなことが起きていました。時は、大正時代。明治や昭和と比べると15年間と短いことからあまり目立たない印象ですが、この時代に起きたことが後世に与えた影響は小さくはありません。
大正時代は、明治45(1912)年7月の大正天皇の即位に始まります。当時の政治状況は、立憲政友会の西園寺公望と藩閥勢力の桂太郎が政権をめぐってせめぎあう不安定なものでした。藩閥政治に異を唱え、政党政治を求める護憲運動の広がりは、やがて大正デモクラシーと呼ばれる大きなうねりとなります。
大正3(1914)年には、第一次世界大戦が勃発。戦火は世界中に拡大し、国民を総動員しての長期戦に発展しました。日本は連合国側の一員として参戦して太平洋地域のドイツ植民地を占領し、それを「勝利」と称して大いに国威を高揚させました。さらには、連合国側への軍需品の輸出の増加によって空前の「大戦景気」を迎え、国民の所得も増大しました。都市部の生活は豊かになり、ラジオや映画などの大衆文化が花開いたのです。
大戦中、ロシアでは帝政に対する革命が起き、世界初の社会主義国家であるソヴィエト政府が樹立しました。これに干渉する欧米各国の動きを受けて日本もシベリア(ロシア東部)に出兵。宇都宮に置かれていた陸軍第十四師団の一部も派遣されました。
シベリア出兵の影響は大きく、米の買い占めや売り惜しみが起き、大戦景気による賃金や物価の上昇と相まって、米の価格が一気に高まりました。これが原因で富山を皮切りに米騒動が全国で起きます。栃木県内でも、茂木町で住民約500人が米穀商に米の安売りを求めた記録が残っています。
こうした混迷の中で首相となったのが、「平民宰相」原敬でした。政党政治を実現したとされる原には、あまり知られていない別の一面もあります。1年間足らずですが、足尾銅山を経営する古河鉱業の副社長を勤めています。その後内務大臣となり、鉱毒被害を受けた谷中村(跡地は現在の渡良瀬遊水地)の立ち退きにも関わりました。のちに原は、19歳の青年によって暗殺されます。
激変する政局の間を縫うように、大正7(1918)年以降数度にわたるスペイン風邪の大流行、大正12(1923)年には東京を中心に壊滅的な打撃を受ける関東大震災が起きるなど、疫病や天災にも見舞われました。スペイン風邪の記録は少ないですが、矢板町(現在の矢板市)の医師・五味淵伊次郎の見聞録が残っており(国立国会図書館蔵)、そこからは、雪の中夜遅くまで患者の家を往診して回り、治療法をさぐって奮闘する一人の医師の姿が浮かび上がってきます。
このように、大正時代には現代と類似した部分があり、現代の社会を生きる私たちが教訓として学べるところもたくさんあります。その時々で起きるさまざまな課題に対して、適切に判断しより良い解決方法を導き出すためにも、歴史から学んだことは生かしていくことができるはずです。
大正時代になると、明治時代の藩閥政治への反発から、政党政治を行って国民の意思を政治に反映するべきだとする声が高まりました。吉野作造が唱えた民本主義はこの動きを後押しし、大正7(1918)年の原敬内閣成立、大正14(1925)年の普通選挙法制定へとつながっていきます。
(文/栃木県立博物館主任研究員 小栁 真弓)